| ■ 朱里エイコ略歴 田辺栄子 (1948年3月19日生まれ、東京都出身)
| ・ | 田辺エイ子→田辺エイコ→朱里エイコ、と名前を変えている。 |
| ・ | 昭和47年「北国行き」「恋の衝撃」、48年「ジェット最終便」等のヒット曲を持つ。 |
| ・ | アメリカでも公演も行い、「リトル・ダイナマイト」のニックネームを得ている。 |
| ・ | 母親は有名なダンサー・振付師の朱里みさを、戦後、ショーダンサーとして渡米、人気番組の「エド・サリバンショー」などに出演し、帰国後は宝塚歌劇団の講師や振付、ミュージカルの製作・振付に携わる。 |
| ・ | いずみたく、すぎやまこういちに師事。 |
| ・ | 現在はエルフィンスケジュールという事務所に所属している。 |

■ アメリカでの活動を経て 1968年の春、朱里エイコは単身渡米した。舞姫として有名であった母親のミサオの陰に隠れてエイコの存在は目立たなかった。そんな彼女が武者修行のようにショウ・ビジネスの盛んなアメリカに単身とびこむ冒険を敢行したのは大きな決断のいることであった。 70年1月、ラスヴェガスでのショウの大成功、2月”エイコ朱里とそのバンド”を組織しての「サハラ・ホテル」出演は2ヶ月にわたるロングランであった。彼女の名は一躍全米になりひびき、その後、ネヴァダ、ニューヨーク、ロスアンゼルス、ハワイと”エイコ朱里”のワンマン・ショウは好評の中に続いた。 71年2月、エイコ朱里は帰国した。1年間のアメリカでの成功は彼女自身を大きく変え、母親の影に隠れたエイコではなく世界に大きく羽ばたく日本の代表的歌手としての風格さえそなわっていた。 私は熱海のホテルのラウンジで歌うエイコを見た。温泉の観光客の多くは地方の人たちで彼らにとってエイコの歌う英語の歌は理解しにくい。だが彼らの多くはショウマン・エイコの舞台に感動していた。エイコは今や日本の誇る国際的シンガーなのである。
(世界に羽ばたく朱里エイコ、原文) 
■ ラスベガスからカーネギーホールへ 1975年3月28日に日本をあとにし、翌1日からニューオーリンズ・ロスアンゼルス・レイクタホ・リノ・プエルトリコと約半年にわたってワンマンショーを行う。 10月から、ウエストコートのバンド「タワー・オブ・パワー」とのジョイントレコーディングをする、曲は「I'm
Not A Little Girl Anymore(愛のめざめ)」「Burning My Bridges Behind Me(絶体絶命)」の2曲。 その最中に、ラスベガスショーのオーディションに参加、その場でフロンティアホテルのメインステージに出演が決定。12月25日から2週間の契約で始まったワンマンショーだが、翌年2月1日から1ヶ月間再演された。
翌年、1976年3月5日から公演中だったフラミンゴヒルトンのトロフィーラウンジのショーの出演中にカーネギーホール出演の話を持ちかけられ、幸運にも出演が決定する。 |